2006/09
反骨発明家・松前重義君川 治 15


 熊本市嘉島町に松前重義記念館がある。周囲は今も一面田圃であり、89歳で亡くなるまでの活動の記録や記念の品々が展示してある。記念館の隣には生まれ育った生家が保存され公開されている。

 松前は、どんな優れた人でも1人の者に出来ることは限りがあり、後世に残す最大のものは教育であると考えた。曰く「明治の二大政治家、伊藤博文は大磯に滄浪閣、山県有朋は東京に椿山荘という料亭を残したに過ぎない。これに対し大隈重信は早稲田大学を、福沢諭吉は慶応大学を後世に残し、そこから多くの人材を社会に送り出した。今もゆるぎない成長を遂げている」

無装荷ケーブル

東海大学HP「松前重義 生誕百年」より転載
 松前重義と云えば東海大学の創始者で国会議員の顔を思い出す人が多いと思う。しかし、彼は東北帝国大学工学部を卒業した電気工学・通信工学の技術者であり、旧逓信省の技術官僚であった。逓信省時代に通信技術に大きな変革をもたらした無装荷ケーブルを発明した技術者で、工学博士であることは専門の者以外にはあまり知られていない。
 松前重義は熊本の中心街より車で30分位の緑川沿いの町、嘉島町に生まれ育った。中学からは熊本市に移り、熊本高等工業を卒業するまで熊本で過ごした。
 熊本高等工業を卒業した松前重義は唯一、高等工業卒業者に門戸を開いていた東北帝国大学に進学し、通信工学の最先端の教育を受けた。東北帝国大学を卒業して大学に残るように勧められたが、大学は足の引っ張り合いが多いから嫌だ、企業は会社方針に沿った仕事しかできないから嫌だと断って、国家的事業を行おうとの崇高な理想に燃えて逓信省に入った。しかし官庁の保守的な体質、事なかれ主義、文官偏重で技術官僚の地位が低いことなどの虚しさに悩むことになる。
 逓信省は国営通信事業を所管しており、電話施設の建設や機器の開発も行っていた。そこで松前自ら技術者の先頭に立って頑張ったのが、無装荷ケーブル通信システムの発明である。無装荷ケーブル方式は搬送波を使用して音声多重化する方式、伝送損失を増幅器で補償する方式であり、しかも1本のケーブルで双方向通信が可能となる。下関―釜山間の実用化試験は昭和10年に成功した。後の日本電信電話公社総裁となる米沢滋氏は「日本人が独自に開発した自主技術としては、優にノーベル賞に値するもので、世界的な発明として高い評価をうけている」と語っている。
 中央官庁の主要ポストは文官で占められ、技術官僚は課長止まりであった。そこで状況を打破するために逓信省内で技術談話会を組織して、待遇改善要求を出し各省の技術者と連携する「7省技術者協議会」を組織して活動を拡げた。次には通信院工務局時代に行った生産力調査で、東条内閣の無謀な戦争に反対意見を提出した。それらの行動で上層部や特高刑事に睨まれて、当時は技術官僚の兵役は免除にも拘らず、東条英機により二等兵として懲罰召集された。しかし先輩・同僚技術者の支援、東北帝大の恩師で技術院総裁をしていた八木秀次の力添えなどがあり、奇跡的に生還した。
 戦後、内閣書記官長の緒方竹虎氏の要請で通信院総裁となる。しかしミズリー号艦上で無条件降伏の調印した昭和20年9月2日の3日前の就任で、このために公職追放になってしまった。GHQも形式主義で内容の調査もせず惜しい人材を失ったものである。以後、官僚に戻ることは無かった。松前重義は技術者、技術官僚、教育者、宗教家、政治家など多くの顔を持っている。


筆者プロフィール
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




On Line Journal LIFEVISION | ▲TOP | CLOSE |